京都の歴史「平安京以前の京都はどんなとこ?いつから人が住みついたの?」

こんにちは、私サモハンが住んでいる町「京都」は大昔ほとんどが海のだったのです。

その海だった場所がどのようにして今の京都の形状になっていったかを、紹介していきます。

歴史的に京都が登場するのが「平安京」以降になりますが、それ以前はこの土地にどのようにして人が集まり住み着いたのかを紹介していきます。

平安時代以前の残っている名所も紹介していきたいと思います。

大昔の京都はどんなとこ?

現在の京都といえば盆地として有名ですが、人が住み始める以前の京都盆地は現在の大阪湾の海水が入り込んでいる海の一部でした。

その後、地殻変動などで陸地が盛り上がったり、河川が土や砂を運んだりして、盆地に積み重なっていき、やがて盆地部分から水が抜け現在の地形になっていったのですね。

盆地から水が抜ける時に現在は埋め立てられているのですが、その当時に出来たのが巨椋池などになります。

初めから現在の盆地の形状ではなく、もともとは海の一部から変化していって現在の京都盆地の形状になっていったのですね。

いつ頃から、人が現れたのでしょう?

京都の人々の歴史は、発掘したものから考えて今から約2~3万年前(後期石器時代)と考えられています。

大陸から海を渡って来たホモ・サピエンスだと言われております。

当時の人々は狩りをしたり、食べることのできる草や木の実を採取して、京都盆地の周りの山や平地などを移動して生活していたようです。

京都市内の小学校の校庭からも、石器などが発掘されたり、現在の京都市動物園の地中からはオオツノシカの足跡と思われるものが発見されております。

そして今から約1万6500年前~2300年前(縄文時代)の人々は、川で魚を取ったり木の実の採取をしながら生活していたそうです。

京都盆地の各所で遺跡が発見されているようですが、特に多かったのが現在の京都市左京区の北白川辺りに多く人々が住んでいた痕跡があるようで、土器類や竪穴式住居跡が発見されてるようです。

北白川周辺は現在は高級住宅街で大昔も住みやすかったのですね(笑)

今から約2300年前~1700年前(弥生時代)には京都盆地の各地で米作りが行われるようになったようで、現在の京都駅より南側から伏見にかけて水田の跡が発見されていたようです。

初めに来た人がどんな人だったかや時代毎に、どこでどのような生活をしていっていたかがよくわかりますね。

渡来系移住者・泰氏の登場とゆかりの名所

石器時代、縄文時代、弥生時代、を経て古墳時代に入り注目したいのが泰氏の存在です。泰氏の登場により京都の中心は現在の嵯峨野から太秦付近になります。

実は私サモハンは太秦出身で、これから出てくる泰氏由来の遺跡や名所や建物は昔の遊び場でした。

泰氏は朝鮮半島から日本に来た渡来人で、現在われわれが大切にしている習慣や生活様式や文化、技術を日本に伝えたと言われております。

泰氏の名の由来は色々な説があり、織物を織る機(はた)や、絶滅した「秦」の生き残りが渡来して技術を伝えたという説もあります。

泰河勝(はたのかわかつ)が603年に聖徳太子(厩戸皇子)から授かった仏像をまつる為に建てたのが広隆寺(蜂岡寺)です。

そのような由緒あるお寺の中で子供のころはよくかくれんぼや野球をしていました。昔は子供の遊び場でしたが、今やったら怒られるな~。この広隆寺は10月10日にお寺なのに牛「祭り」というお祭りが行われます。

その時に授かった仏像というのが国宝第1号となった弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)です。

太秦の地名も泰氏が織物などをうずたかく積み上げたという由来から太秦になったと言われております。

地元の人間は木島神社と呼んでいる「蚕ノ社」通称の方が有名なのね。地元の人は木島神社とほぼ正式名で読んでるのですが…。

ここは蚕の神様がまつられており、養蚕・機織りをつかさどった泰氏がまつったのが最初だと言われております。

ここには珍しい鳥居「三柱鳥居」という三本柱の鳥居でどの方向からも正面で拝めるようになっております。この鳥居の場所は昔湧水が湧いている池になっておりお参りの前に足を洗って清める場所でした。

子供のころは夏になるとここで水遊びをしたり、ザリガニ釣りをしたりして遊んでいました。しかし現在は湧水が枯れ、水がない状態になっております。

全国で4番目の石室の大きさを持つ「蛇塚古墳」この古墳は大型の横穴式石室を持つ前方後円墳で泰氏の統率者の墓だと言われております。

前方後円墳ですが現在は石室回りだけが残っておりフェンスで囲んでおり入れないようになっています。

なぜ蛇塚と言う名前かというと昔石室に蛇がウヨウヨしていたといわれておりますが、サモハンの家の裏が蛇塚だったのですが、一度も蛇は見たことがございません。

ちなみに子供のころよくフェンスを乗り越えて中に入ってよく怒られておりました。今は近所の管理者に入らしてって言ったらフェンスのカギを開けてくれるようです。絶対じゃないかもしれないけど。

平安京以前の泰氏は未開の地であった現在の嵯峨野の地域で用水路をつくり農業を広めました。

現在の桂川は度々洪水が起き、泰氏は今で言う大きなダム「葛野大堰」を作って川の氾濫を防ぎました。その時に本流と用水路に分けて農業用水として利用しました。

作ったダムの場所は現在はないのですが、渡月橋の上流に現在は同じ作りの堰があり、そこより上流は大堰川(おおいがわ)と呼んでいます。

まとめ

平安京が出来るまでの京都をざっと紹介してきましたが、京都人は小学校の時に習いますが、全国的にはあまり知られていない事が多いと思います。私も調べて初めて知ったこともありました。また京都に来たときは、このような視点から散策したら面白いと思います。

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