平安時代の始まり「なぜ京都に都が移った謎」

平城京から長岡京、平安京に都が移った理由は本当は何だったか知っていますか?

理由はいくつかあるのですが、結構おどろおどろしい話が出てきます。

科学の発達していない世の中では呪いや祟りをかなり恐れてたみたいですね。

そう考えると学生時代の歴史で一番退屈だった平安時代がちょっと違った角度から見れますね。

なぜ京都に都が移ってきたの?

日本の歴史の中で都は数回変わっています。特に奈良の平城京から長岡京、そして平安京と短期間で都は変わっています。この変更にはそれなりの理由があるのです。

理由その1

やはり遷都の理由として一番に挙げられるのは、仏教勢力が力をつけ、政治にも口出しするようになってきたからです。聖武天皇は災害や戦乱が度々起こることで仏教の教えを借りて世の中を収めようとしました。しかしその後、東大寺や興福寺などの仏教勢力が力をつけ政治にも口出すようになってきました。

理由その2

当時、光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は政治的に仏教勢力が幅を利かし天皇の権力が発揮できない平城京を遷都し、新たな土地で朝廷中心の朝廷政治をすることを考えたようです。

天皇家の系統の問題でがあったようです。当時、大和の国「平城京」では天武天皇系の貴族が、大きな力を持っていました。大化の改新を起こした天智天皇系の血筋の桓武天皇は自分の異なる天武天皇の血筋の貴族らの力を恐れており、新たに都を作り自分と違う系統の勢力を弱らせようとしたのも理由の一つです。

理由その3

平城京は物資を運ぶ為の手段が陸路だけに頼っていました。やはり効率よく流通ルート確保するには、水路での運搬ルートが欲しかったようです。さらに川がないことで下水問題も抱えており、平城京の町は不衛生な状態であったようです。

長岡京からの遷都はなぜ

平城京から移ってきた長岡京は実質10年で平安京に移りました。あまりにも短い都でしたが、なぜ移ったのでしょうか?

長岡京は平城京に比べて非常に優れた都だったそうですが、この遷都に深く関わっている、いわば責任者「藤原種継」という人物が天皇が都を離れている間に消されてしまいました。それを実行したグループに寺院と関連の深い人物が含まれていたようです。怒った桓武天皇は何人もの貴族や皇族を処罰したようです。

桓武天皇の弟の早良親王も藤原種継事件に関与していたと疑われました。早良親王が犯行を実行した寺院グループと関係が深かったのが原因で疑われてしまったのです。そして淡路に流されてしまいます。しかしこれを不服とした早良親王は淡路に行く途中に自分は無実で関与していないと無実を訴え絶食しました。そして途中の河内の国で絶命してしまいました。

早良親王の没後、桓武天皇の近親者に次々と不幸が訪れます。桓武天皇の皇后や生母が病気で亡くなったりしたり、皇太子に立てられた安殿親王も病気になったり、飢餓や疫病が大流行してしまい、これは早良親王の怨霊のせいだと、恐れられていました。当時の日本では、怨霊を恐れる度合いが現代の比ではないほどでした。

そういうこともあって、桓武天皇は長岡京を遷都し、平安京へと移ったのです。ちなみに早良親王の怨霊にビビった桓武天皇は早良親王に祟道天皇という天皇号を送ったようです。

まとめ

平城京から平安京に移るのは、やはりドロドロした人間関係があるのですね。新しい都は「平安楽土」になるように願いを込めて「平安京」という名前になったそうです。

それにしても怨霊に恐れて都を移すってすごいですね。うーん、家にお化けが頻繁に出たら引っ越すかもなー。中学の時に習った平安時代、本当に面白くなかったんだけど、こうやってパートパートで見ていると「へぇ~そうだったんや」とか思うことがありました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする