平安時代の終わり「華やかに栄えた平安京がどのように衰退し、どうして源氏が力をつけていったのか?」

宇多天皇や菅原道真がいなくなると藤原氏に並ぶ貴族はいなくなり、平安時代の中頃は最も栄えました、しかしその繁栄も徐々に衰退していきます。ではそこまで栄えた藤原氏はなぜ衰退していったのでしょうか?

藤原氏の衰退

繁栄があれば衰退があります。平安時代の一大勢力の藤原氏の衰退には3つの要因があったと言われております。

①まず挙げられるのは藤原氏の中での騒動(いわゆる内輪もめ)です。藤原道長の息子、藤原頼通と藤原教通の兄弟ゲンカが勃発し、藤原氏の勢力が二分化してしまい、そこを後三条天皇が付け込んだことにより弱体化しました。その時に、藤原氏に不満がある中流貴族達を後三条天皇が重用したことにより、摂関の出る幕が亡くなっていったと言われております。

③三つめは荘園整理会が原因だと言われております。今まで荘園整理令を出した天皇は多くいたようですが、外戚関係などの関係で藤原氏には忖度されていたようで、藤原氏からは税金を取っていませんでした。その分の多くの財産を残せていたのですが、後三条天皇になって外戚関係が薄れていますので、忖度することもなく、藤原氏からも税を徴収したようです。この時、実は藤原教通が兄の藤原頼通の所領を減らせると思い税を取れる許可を出したと言われております。そして荘園の整理が進み、次第に藤原氏も衰退していったと言われております。やはり兄弟ゲンカが原因だったのですね。

②二つ目に挙げられるのは後三条天皇の前の天皇、後冷泉天皇に藤原頼通の娘、寛子と藤原教通の娘、歓子が入内しましたが、跡取を残すことが出来ず、外戚から外れてしまい、その後即位したのが後三条天皇であったことから実権を失っていったそうです。ずっと外戚関係を続けてきて繁栄してきたので、なくなるといくら藤原氏でもつらかったようですね。

平安時代初期から中頃まで栄えていた藤原氏は衰退し、この後は武家政権になりますが、その後も摂政・関白の地位は、豊臣秀吉を除いて藤原氏によって独占され続けます。その藤原氏の家も別れが出来ていき、所々で日本の歴史に登場してきます。一条家、三条家、西園寺家、日野家、近衛家、など姻族まで入れますと徳川家、天皇家までおり、表舞台には登場してなくとも、日本の歴史で重要な血筋であることがわかりますね。

平家のつかの間の繁栄と没落

藤原氏の衰退により平安時代末期には武士が力を持つ時代になってきました。その頃最も力を持っていたのが平家であり、もっとも繁栄していたのが平清盛の時代でした。

平時忠の言った言葉「平家であらずんば 人にあらず」と平家の人間でなかったら人としての価値はないですよと言った有名な言葉があり、まさに絶好調だったようです。

平清盛はスピード出世で早くに武士で太政大臣になっており、身内を天皇家や朝廷に送り込み親戚関係を築き、平清盛の孫には天皇(安徳天皇)も誕生しております。

1182年、平清盛が64歳で亡くなると、平家の勢力が急激に失速していき、そして宿敵の源氏に怯え源頼朝の代官、源義経に一ノ谷と屋島の戦いに敗れます。最後の決戦となった壇之浦では、平家一族が敗れ去りました。

平家は短い間に繁栄と没落を経験し、ここで藤原氏と平家で繁栄した平安時代が終わることになります。

源平合戦で勝利した源頼朝は日本初となる武家政権である鎌倉幕府をひらくのであります。

まとめ

中学の時から長くてつまらない平安時代でしたが、こうやって個別の話を所々見ていくとなんて人間らしい世界で回っている時代なんだと思いました。藤原氏の権力の取り方、今の時代と変わらないことがわかります。また違う角度から見れたのがよかったです。

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