平安京の誕生「どの様にして平安京を作っていったのか?」

桓武天皇が長岡京から都を移した平安時代は794年から1185年までの約390年を指しています。では平安京を作るのに何をモデルにして、どのように作っていったのか、しらべてみました。

平安京のモデル

平安京は、奈良の平城京と同じく中国の都(唐)の長安や洛陽をまねして作られたと言われております。東西約4.5キロ、南北約5.2キロの長方形型で都市の配置は長安とよく似ていました。

平安京や平城京でよく言われるのが緻密な中国風水を用いて作られた都市だったということです。平安京の場所は、中国風水で言うところの「四神相応」の土地だったそうです。

桓武天皇が京都に下見に行ったときの様子が日本後期に「この国は(京都)山河襟帯、自然に城を作る」と記述されていました。「山河襟帯」とは「四神相応の地」と意味をあらわします。

四神とは天の四方を司る神獣で「東の青龍」「西の白虎」「南の朱雀」「北の玄武」を表し、「四神相応」とはその守り神がそろった土地だということなのですね。

当時の北は現在の桟敷ヶ岳、東は比叡山から左大文字までの連なり、西は愛宕山からポンポン山まだの連なり、南は大きく開けていて巨椋池まで平地が続きそこに桃山城の建っている山があり、まさに中国風水で言う上々吉とされる「四神相応」の土地であると言われました。現在言われてるのは北は船岡山、東は鴨川、西は山陰道、南は巨椋池(今は埋め立てられていて池はないです。)となっております。京都は盆地でその中にすっぽり町が入ってるのでなんか守られている感じはしますね。

平安京の場所は?

現在の京都御所は丸太町烏丸から河原町の辺りですが、この場所は平安京の北東の端っこだった所でした。もともと天皇の住んでいる大内裏は現在の千本丸太町辺りにあり、朱雀門はJR二条駅の辺りにありました。どうも、度重なる火事で焼失し現在の京都御所に住み着いたようです。もともとは別宅のようなところだったそうです。

平安京の中央通りは朱雀大路と言い、朱雀大路は横幅約84メートルもの広さがありました。?朱雀大路は現在の千本通りですが、この通り広い所で約25メートル、狭い所で6メートル程です。すごく様変わりしました。

船岡山の山頂にあるずんぐりとした石が磐座が朱雀大路を作る基点となったと言われております。その石を背にして南を見ると一直線に朱雀大路(現在の千本通り)が延びていて、その右側が右京、左側を左京と言われました。

朱雀大路の南には、平安京の玄関口の羅生門があり、その両側に東寺と西寺が作られました。現在は東寺しか残っていませんが、西寺にも大きな五重塔があったそうです。

ではなぜ東寺は残っていて西寺はなくなっているのでしょうか?これには逸話ですがある一つの話が残っています。東寺は嵯峨天皇により823年空海(弘法大師)に与えられました。ここは真言密教の道場となり、何度も火事などで焼失を乗り越え今に至ってます。そして西寺は嵯峨天皇により守敏に与えられましたが、鎌倉時代に西寺はなくなってしまいました。その原因で言われているのが、神泉苑(現在の二条城の南側)での雨ごい勝負だと言われており、空海がお祈りした時に雨が降り守敏の時は降らなかったということで、空海との勝負に負けた守敏は評判を落としてしまい衰退したと言われています。

まとめ

平安京は桓武天皇の当時の技術を集結した最高傑作だったようですね。現在では平安京の面影は残っておらず当時からあるのが東寺だけみたいですが、千本通りやその周り、には平安京の由来の石碑やパネルが設置してあります。また見に来てください。

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