桓武天皇は都を京都に移し、平安京を建てました。それから約390年位の平安時代が始まります。平安時代には次々と日本文化が誕生しました。では、どのような流れで日本文化が誕生していったのか?平安時代で切っても切れない藤原氏の存在はどんな一族なのか調べてみました。
政治の実権を握る藤原氏
平安時代で存在感を表した藤原氏のルーツは、あの大化の改新で登場した藤原鎌足です。その子孫が平安時代に力をつけてきました。どうして力をつけてきたかというと、藤原一族の娘や孫娘を天皇の后にして、天皇と親戚関係になり、そこからこの関係が後々まで続き、やがて天皇と藤原氏の娘の間に出来た子供が天皇になっていきました。
そして、藤原氏は天皇が幼いころ天皇に代わって政治を行う役目「摂政」や、成長した天皇を助けて政治を行う「関白」という役職について、力をつけ政治の実権を握っていきました。
当時最強の藤原氏と菅原道真
850年~900年頃、藤原氏の権力は、とてつもなく強力になってしまい、天皇ですら簡単には藤原氏の意向には逆らえない状態となってきました。
光孝天皇から宇多天皇に代わるときに宇多天皇は藤原氏の力にビビった宇多天皇は、藤原氏に染まっていない優秀な人物を自分の側近として重用することにしました。それが菅原道真です。
宇多天皇は藤原基経の息子藤原時平が親の後を継ごうとしたときに、「時平はまだ若すぎるのでまだ仕事が出来ないのでは?」といい、関白は空席です。なので、政治は天皇自身で行いますと言いました。天皇親政が宇多天皇によって行われました。この頃から菅原道真は台頭してきたのです。
最強権力者の藤原氏、当時の関白「藤原基経」が891年に亡くなると宇多天皇はこれはチャンスと思い、行動を起こしました。
そして宇多天皇は藤原氏の影響のない政治を行うために次々と行動を起こしていきます。まずは、次期天皇候補(皇太子)を藤原氏の親戚関係でない人物を指名しました。
関白の空席、皇太子の指名により、接政・関白という役職と、天皇の外戚としての地位を藤原時平から奪いました。
こうした感じで宇多天皇と藤原時平の関係が微妙な感じになっていきました。
遣唐使廃止はなぜ?
その頃、菅原道真はあの有名な「遣唐使廃止を行いました。「白紙(894年)に戻そう遣唐使」と習っていましたが、なぜ廃止にしたかは明確な理由はわかっていないようです。おそらく、唐で内乱が続いていたのか、当時航海中に多くの人が命を落としていて、そこまでしていく必要がないいんではないか?と考え始めたのではないか。なぜかというと中国文化を吸収していた日本はこの頃になると、もともとあった日本文化と中国文化を融合して新しい日本文化が芽生え始めてきたからだと思われます。ここで日本はようやく独立した国家になっていくのですね。
藤原氏の復活と菅原道真の左遷
宇多天皇は897年に譲位して上皇になり、醍醐天皇が即位しました。この醍醐天皇は藤原氏の影響の無い人物でした。そして、醍醐天皇の妃は為子内親王という皇族出身者で藤原氏と関係のない人物が選ばれ、藤原氏は完全に天皇の外戚から外れてしまいました。醍醐天皇が即位しても宇多天皇の影響力は相当あったと思われます。
藤原氏外しを行って来た宇多天皇は、ここまでは思惑通りでしたが、予期せぬ事態が起こってしまいました。なんと醍醐天皇の妃、為子内親王が亡くなってしまいました。
そこでチャンスと見た藤原時平は自分の妹である藤原穏子を新たな醍醐天皇の妃にしようと考えました。そこで、藤原穏子を醍醐天皇の妃にするかの論争が始まるのです。
ここで宇多上皇は猛反対をしました。そして側近の菅原道真も反対派になりました。だがしかし、醍醐天皇は藤原氏と協力して安定した政治を行っていきたい派だったのです。宇多上皇は今だ絶大な影響力を持っていましたが、ここで醍醐天皇と対立することになるのです。だけどここで意外な結末が訪れるのです。
宇多上皇は政治に影響力を持っていましたが、この頃は仏教に夢中だったそうです。そして899年、宇多上皇は出家し法皇となったのです。出家した宇多法皇はお寺にいることが増えて、政治的な影響力が薄れてきました。
なんというチャンスの到来でしょうか!!藤原時平は宇多天皇の力を完全になくすために、宇多天皇の側近だった菅原道真を政治の舞台から追放することを計画しました。
藤原時平はどのようにして、菅原道真を引きずり下ろしたかと言うと、菅原道真の妻は宇多天皇の娘でしたので、その子供は天皇の血筋ということで、天皇になる資格を持っていました。そこで藤原時平は菅原道真が醍醐天皇の代わりに自分の子供を即位させようとしていると情報を流し、無理やり謀反の罪を着せ政治的地位を剥奪して太宰府へ左遷させました。この時同時に、菅原道真に近い人物を朝廷内から一掃させました。
これで藤原氏にとって邪魔する人物はいなくなり、再び藤原氏の地位を取り戻しました。
菅原道真の怨霊とは!!
903年、菅原道真が太宰府に左遷されてから2年後に菅原道真は亡くなりました。その後醍醐天皇の周りで次々と不幸が訪れます。909年、藤原時平が39歳で亡くなります。923年、醍醐天皇の息子が亡くなります。925年、醍醐天皇の孫が亡くなります。930年、朝廷内の清涼殿に雷が落ちます。この時清涼殿の建物にいた人たちが反菅原道真派の人たちでした。その3か月後、醍醐天皇が亡くなりました。
清涼殿落雷事件では菅原道真が雷様になってやってきたと言われており(その時の様子を描いた絵が残っているようです)、この事件がきっかけに、菅原道真の祟りを鎮めるために神社を作ったそうです。それが京都にある北野天満宮です。菅原道真が天の神様になって(雷様)やって来たということで天神さんと呼ばれているようです。
後に菅原道真は学問の神様になっていますが、これはと言うと菅原道真はやはりとても優秀な官僚だったようです。学識でも文才でも秀でていたと言われております。その話が受け継がれて学問の神様になっていったようです。
まとめ
藤原氏の執念はすごいですね。代々受け継がれている家柄を絶やしてはいけないような執念を感じましたね。菅原道真と藤原時平の対決も面白かったです。宇多天皇・菅原道真のコンビを打ち破り、これぞ藤原氏と言うのを見せつけましたね。菅原祟り騒動で、藤原氏のこの世代は終わっていきますが、もう少し後には、藤原氏の最高時代がやってきます。